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世界でも稀な平和国家「徳川幕府」のヒミツに迫る!

2023年02月15日

 

2023年の大河ドラマ「どうする家康」や、先月、NHKドラマ10で放送された、よしながふみ原作の「大奥」など。江戸時代の終わりから150年以上経過しているにもかかわらず、江戸時代および江戸幕府創立者の徳川家康は注目され続けています。

 

江戸時代は日本だけでなく海外からも注目されており、徳川幕府統治下の日本として、「Tokugawa Japan(トクガワ・ジャパン」と呼ばれ、高く評価されているようです。

 

そこで今回は、いまも戦争が絶えない世界の平和を願って、“徳川幕府(江戸幕府)はなぜ、250年以上も平和を保てたのか?”その理由を探ってみましょう。

徳川幕府とは

徳川家康が江戸を本拠として創立した武家政権。江戸幕府ともいわれ、この幕府が統治した時代が江戸時代とされています。

 

江戸時代の期間は、1603年3月24日に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を樹立してから、1868年10月23日の「一世一元の詔」の発布に伴い、慶応から明治に改元される迄の265年間です。

 

一世一元の詔:1868年10月23日(慶応4年9月8日)、慶応4年を改めて「明治元年」とするとともに、天皇一代に元号一つという「一世一元の制」を定めた天皇の命令を伝える国家の公文書。

世界が注目したTokugawa Japan

江戸時代が海外から「Tokugawa Japan」と呼ばれ、世界から注目された理由はどこにあるのでしょうか?それは長く続いた「泰平の世」にあります。

 

当時、毎年戦火が絶えなかったヨーロッパ諸国とは異なり、250年以上、これといった戦乱も無く、幕府が常備軍(国軍)を組織せず、ましてや領土拡張を狙った海外侵略も企てずにひたすら平和を保った徳川幕府は、世界的にみても非常に稀有な政権でした。

 

それでは、“なぜ徳川幕府はそれほどまでに長い期間、平和を保てたのか?”そのヒミツを探ってみましょう。

徳川幕府の平和のヒミツは?
強大な軍事力を持つ「武威国家」

当時、ヨーロッパで最も大きな国だったスペインの軍事力は7~8万人。それに対して、戦国時代に拡大した日本の軍事力は15〜25万人あり、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に15万人の兵を2回送り込んだ実績があることからも、日本は軍事大国として世界に知られる存在でした。

 

そんな理由も関係していたのか、徳川家康は諸外国から国王より格上の「皇帝」とみなされ、エンペラーと呼ばれていました。強大な軍事力で世界に恐れられていたからこそ、海外を締め出す鎖国の実現が可能だったと考えられます。

 

一方、国内に対しては、「一国一城令」や「武家諸法度」など、大名が守るべき法令を発布し、法を破れば“地位と領地を没収する”という罰を示すことで、幕府に対する反乱や大名同士の戦いを封じ、“武力を見せ続けながらも行使はせず”という方針で諸大名を統治していました。

さまざまな社会制度

徳川幕府は諸藩を安定的に統治するため、さまざまな制度を策定しました。その中で、皆さんも一度は耳にしたことがあるだろう制度について、あらためて見てみましょう。

 

◇参勤交代 

全国250以上ある大名家が2年ごとに江戸に参覲し、1年経ったら自分の領地へ引き上げる交代を行う制度。諸大名は一年おきに江戸と自分の領地を行き来し、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければなりませんでした。自分の領地から江戸までの旅費だけでなく江戸の滞在費までも大名に負担させていたため、各藩に財政的負担を掛けるとともに人質をも取る形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たしたといわれています。

 

参勤交代のため、毎回、何万人もの人が江戸に来ることで日本各地の物資が江戸に集まりました。地方と江戸との人流の移動により、江戸で発展した文化や技術が全国に行き渡り、参勤交代が高い文化レベルを全国的に展開させる要因になったとも考えられます。

 

◇士農工商

江戸時代の身分制度を意味する言葉として広く知られていましたが、1990年代になると近世史の研究が進み、士農工商という身分制度や上下関係は存在しないことが明らかになりました。

 

江戸時代の士農工商の職業概念は、実際の身分制度とは大きく異なっていたようで、当時の諸制度から読み取れる身分は、「士」(武士)を上位にし、農、商ではなく、「百姓」と「町人」を並べるものでした。また「工」という概念はなく、町に住む職人は町人、村に住む職人は百姓とされ、百姓は村単位で、町人は町単位で把握し、両者の間に上下関係はありませんでした。しかし百姓・町人身分は「平人」身分としてくくられ、「平人」が武士になることは多くなかったようです。

 

但し、江戸時代中期頃になると貨幣経済や産業の発達により、商人が政治・経済に大きな影響力を持つようになり、商人には町人でありながら扶持米や士分など武士身分並の待遇が与えられる者もいました。また、医師と僧侶は身分制度とはかけ離れた特別な存在でした。農民や商人の子でも、医師のもとで医学を学び領主の許可を得れば開業が可能で、その能力が優れていれば、幕府や藩に召し抱えられて、下級武士並の待遇が与えられることもあったようです。

 

このようなさまざまな社会制度の中で、多様な身分や職業が影響しあったり、人流の移動により文化や技術が各地に広まったりすることで、日本全体が活性化していったのかもしれませんね。

思想の大変革

徳川幕府はまた、諸大名を統制するために、織田信長がはじめたといわれる「思想の変革」を活用し、大名の領地に関する考え方を一新させました。

 

“戦により自分の領地を広げていく”という戦国時代の大名の常識を、“土地は天から天下人(幕府のトップ)に預けられたもの”という意識に変化させ、“土地は大名の能力に応じて預け、悪政を行えば直ちに取り上げられるもの”という考え方を浸透させていきました。 

 

徳川幕府は、大名の持つ城の数を規制する「一国一城令」や、大名がもともと持っていた領地から幕府が割り当てた土地へ引っ越す「国替え」などを行うことで、城や土地は大名のものではなく、幕府のものであるという認識を大名に植え付けていきました。

 

また、下記のような法令を発布することで、大名の力が強まることや争いを防ぎ、領地の平和を守ることを大名の重要な責務としました。

 

<武家諸法度>

・諸国の藩主や領主は私闘をしてはならない。日頃から注意しておくこと。もし争いが起きた場合は奉行所に届け出て、その指示を仰ぐこと。

・領地での政務は清廉に行い、違法なことをせず、国郡を衰えさせてはならない。

・私的な関所を作ったり、新法を制定して港の流通を止めたりしてはならない。

・500石積み以上の船を造ってはいけない。

 

<御当家令条>

・徳川直轄の代官が悪政に手を染めていたら、百姓はその代官の了解なしに幕府に直訴していい。

・武士が百姓を正当な理由なくむやみに殺害するのは非法行為である。

 

ここまで、徳川幕府が250年以上平和を保ってきたヒミツを探ってきましたがいかがでしたでしょうか?数々の法令を発布し、結果的に265年も「泰平の世」を継続させた徳川家康は、法律の力で平和を維持した政治家といえるのかもしれませんね。

 

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・家康公検定

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参考:

NHK  BSプレミアム「徳川JAPANサミット2023」

Reconsideration of the History

Wikipedia

 

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